組合30年の歩み(2001年に著す)

琉球政府へ陳情(主席応接室)
1970.5.20


(琉球政府側)2名
行政主席:屋良朝苗
広報渉外部長:大島 修

(協会側)5名
川田茂夫 小嶺幸一
儀間増光 内田実 金城 英文
■沿 革(設立経過)■
はじめに
 戦後沖縄でいち早く白蟻防除業を始められた方は、戦前から那覇の西町で白蟻防除業に携わっていた「肥後さん(名前不詳)※注1」という鹿児島県出身の方のようである。ところが、戦後の肥後氏の防除動向について詳しく知る人は少なく、実際のところ事業継続期間はそう長くはなかったのだろう。それからすると戦前・戦後という時期から考えてみると、大分年配の方であったのではなかろうか。今年(2001年1月10日)に持たれた古参業者との座談会でも、直接的に肥後氏と面識のある人はいないようであるし、唯一確認できた話でも、古参業者の一人である小嶺幸一氏の話の中で、たまたま白分が白蟻処理を請け負った家主から「鹿児島県出身の肥後さんという方に自分の家の自蟻処理をやって貰ったことがある」という程度のものでしかなかった。
 本来、肥後氏は防除業者として戦後の草分け的存在であったろうが、不明な点が多いため、単に記録に残すのみに留める。

第一節 白蟻業者の萌芽
 一方戦後沖縄の人で最初に白蟻防除業を本業として始められた方は、座間味村出身の(故)石川重信氏である。石川氏が事業を始めたのは、肥後氏とほぼ同時期頃(1950年前後)のようである。当時石川氏の経営する興南木材化学工業社は、那覇市松尾区にあった。石川氏の営業は、沖縄本島全域は勿論のこと周辺離島迄広範囲に事業を展開していたので、結果として多くの関心ある人が「白蟻防除業のノウハウ」を会得して、独自に自蟻防除業を始めるようになっていった。この会社からの流れとして、時期は少々遅れるが、南西白蟻工業社が設立される。南西白蟻工業社は、当時那覇市寄宮にあり、(故)田盛広助氏を中心にして、2・3人の方が出資をした共同経営であった。ほぼ時期を同じくして、沖縄白蟻工業社が設立される。沖縄白蟻工業社は那覇市与儀にあり、当組合の初代理事長である小嶺幸一氏が代表であった。この3社が戦後沖縄における自蟻防除業者の先駆である。石川氏を源流として、田盛氏、小嶺氏の支流がある。現在、県内で白蟻防除業を行っている業者のルーツを辿れば、殆どこの3社に辿り着くといっても過言ではないだろう。

第二節 組織の変遷
 戦後沖縄で白蟻防除に関する組織が結成されるのは、1962年(昭和37年)4月に「沖縄シロアリ対策協議会」が最初である。当時、琉球大学の池原貞夫教授や建材・薬剤関係の内田実氏をはじめ、白蟻防除業者等が中心になって任意の組織として設立された。
 設立から4年後の1966年春に日本しろあり対策協会(本部東京)の主催する、しろあり防除施工士試験を沖縄で初めて実施することになり、沖縄から始めて4名の防除士が誕生し、翌年の防除士試験で15名の方が合格をする。その後、毎年防除士試験は沖縄で実施されるようになるが、1980年(昭和55)二次試験制度が実施されるようになると、沖縄では一次試験(現地試験)のみが今日まで継続されている。
 当時(1966年)沖縄は米国の施政権下であった。本土との連絡もままならない時代であり、内田氏や関係者の皆様にとっては大変ご苦労があったことと思う。この紙面をお借りしてあらためて謝意を表したい。防除士試験が始まって2年目には多くの合格者が出た勢いで、同年(1967年)9月に「沖縄しろあり防除士協会」が任意の組織として設立され、会長に当時の琉球政府名護林業試験場長の故国吉清保氏が選任された。その結果、必然的に前記協議会の活動はこの協会に引き継がれ、発展的に組織が移行されることとなった。
 この時期、沖縄の日本復帰運動はいよいよ絶頂期を向かえる中、1968年11月10日に実施された初の公選主席選挙で、屋良朝苗氏が当選する。その1年後の1969年11月21日には佐藤栄作日本国首相とニクソン米国大統領の会談で72年返還が合意され、沖縄の日本復帰の方針が明確になった。ところが沖縄では時を同じくして復帰不安という言葉が流行し始めた。屋良朝苗琉球政府行政主席や沖縄の経済界等の言動や動向が連日マスコミをにぎわしていた。つまり、沖縄が日本復帰すると、本土企業が沖縄に進出してくるようになるとして地元経済界が不安をつのらせたのである。
 このような時代背景もあってか、沖縄の白蟻防除業者にも同様の不安が広がり、「沖縄しろあり防除土協会」は、二代目会長川田茂夫氏のとき、1970年5月20日に琉球政府行政主席 屋良朝苗宛に文書による陳情書を提出したのである。陳情の内容は、
  1. 有資格者「しろあり防除施工土」に関する件
  2. シロアリ防除標準仕様書の件
  3. シロアリ防除工事を専門工事としていただく件
であった。
陳情書には参考資料として、(イ)鹿児島県建築課しろあり防除仕様書(ロ)沖縄しろあり防除仕様書(案)(ハ)沖縄しろあり防除士協会規約を添付した。
 琉球政府は、先に沖縄しろあり防除土協会が提出していた陳情書に対して、同年11 月10日付で琉球政府建設局々長 宮里栄一名で回答文書を協会に送付してきた。
回答文書の内容は、
  1. しろあり防除防除施工士の資格は法的根拠のある資格でない。
  2. 沖縄のしろあり防除仕様書(別紙)を定めて、1971年工事から適用する。
  3. しろあり防除問題は建設局が担当する。
というものであった。
 その時、同時発表された「沖縄しろあり防除仕様書」(資料編参照のこと)は琉球政府建設局発行となっており、戦前・戦後を通じて沖縄で初めてしろあり防除工事が法的なものではないにしても、「仕様書」という形で専門工事扱いされるようになったのである。
 このことは我々防除業界にとっては、それ迄は一介の「シライクルサー(しろあり殺し屋)」的存在から、しろあり防除工事が専門業種として公的に位置付されたものであり、意義あることであったし、その後この組合の組織化に向けての強力な自信につながっていくのである。
 当時、同仕様書作成に当っては、建設局の設計課々長 金城嵩幸氏(後の沖縄総合事務局開発建設部長)の理解ある、前向きなご尽力は大きかった。今でも感謝の気持ちで一杯である。

第三節 組合設立の胎動
 1970年まさに沖縄の日本復帰が2年後に迫った頃から我々業界にも復帰不安が口々にささやかれるようになっていた時、事業協同組合法による法人組合の企業組織体があることを知り、時宜を得た話として、当初は一部のメンバーだけで組合組織化について検討がなされていた。やがて「沖縄しろあり防除士協会」が組織として組合設立に向けての役割を担うことになる。協会は全会員(防除士)が将来協同組合員になるという前提のもとに、組合設立に向けての活動は一気に盛り上がりをみせた。我々は協会が先に琉球政府に陳情していた、沖縄独自のしろあり防除仕様書の作成について建設局設計課が積極的に取り組んでいる感触を得ていた。その中で保証項目について金城設計課長からは、任意組織である協会の発行する保証書では、公共の施設を任せられないので、早急に法人組合を組織することが望ましいとの指導助言を受けて、益々組合結成に向けて意を強くした。

第四節 組合設立認可
 組合設立に向けて準備も大詰めを迎え、「沖縄中小企業団体中央会」を訪ねることになるが、当時中央会事務局のあった場所は現在の天久にある会館ではなく、確か泊港の南岸にあった泡盛産業ビル内にあったと記憶している。2階だったか階段を上って行くと、面談して下さったのが、故外間会長(初代)であった。長身の老紳土という感じのお方で、柔らかい口調で励ましのことばを頂いたのが印象深く残っている。
 その後、中央会からの説明会や種々の指導を受けながら、1970年11月30日に組合設立総会を開催することができた。
 組合設立認可申請書は中央会の中間審査をパスして、「琉球政府行政主席 屋良朝苗」名で組合認可書(資料編参照のこと)が授与されたのが、本土復帰を翌年に控えた1971年2月4日付であった。その後、組合設立推進母体としての役割を果たしてきた「沖縄しろあり防除士協会」は沖縄白蟻防除事業協同組合設立により発展的に解散することになる。
 その7年後の1978年(昭和53)12月21日には、組合名称を「沖縄県白蟻防除事業協同組合」にして変更登記を行なった。これは設立当時の名称には「県」が入ってなかったので、組合員の総意として、今後業界のりーダー的存在を意識しての改称であった。
 尚、当組合の設立は白蟻防除業者で組織する事業協同組合としては、全国で第一号である。

第五節 保険保証制度の確立と経過
 しろあり防除処理が専門業種として位置付けられたことにより、業界では保証書発行の兆しが現れた。組合結成後、川田茂夫と金城英文が地元の保険会社である「大同海上火災」に保険保証発行の打診を図りつつ、交渉を行っていた。
 1973年、前原高校体育館の木材処理をドリン系薬剤で施工しようとしたが、果たせず、クロルデン剤を使用した。その内に鹿児島県にある広瀬産業を通じて、薬剤名ケミロックGL(児玉商会)を使用することになった。初期の薬剤購買事業と保証事業であった。以後、次第に防衛施設局関連の土壌処理工事が多くなり、ケミロックGL (クロルデン)が主体になった。しかし、この一社体制の保証が、後々の組合に大きな問題として顕在化してくる。
 1975年6月、大同火災との交渉が成立し、保険保証書の発行にこぎつける。これは組合という組織が勝ち得た大きな成果である。
 この保証制度は、将に画期的な商品であった。従来の保証制度は各メーカーが個々に加入しているもので、メーカーの薬剤を使用しないと発行できないものであった。しかし、この新規保険保証については、組合との契約で「白対協」の認定品であれば、何れのメーカー薬剤を使用しても保証書発行ができるというものである。しかも、新築・既設を問わず発行できるのであった。しかしながら、依然として保証書の発行高は「コダマ保険」が主流を占めていた。次節に見るように、組合は次第に混乱期に入って行くが、混乱が終息するに連れて、保険保証書の発行高も徐々に増えていき、1980年には「大同火災」より、5年間無事故に対して、表彰状を授与された。

第六節 組合分裂・解散の危機
 組合は設立から8年程経過した1979年(昭和54)迄の間に、二度の集団脱退ともいうべき分裂による解散の危機を経験することになる。
 一度目は1974年、川田茂夫氏が代表理事(2代目)の頃であった。組合員の一部が組合を通さずに本土薬剤メーカーと防除薬剤の取引をしているうちにコダマ会というグループが結成され、やがては業者数を増して行き、組合とは別の任意組織(防除協会)が結成された。その協会は独自の保証書も作って活勤を始めるが、図らずもその組織の会長に納まっていたのが、当組合の初代理事長であった。しかも、その協会員の中には当組合員が加入している者も何人かいて、その組合員は組合と協会の保証書を巧みに使い分けて利用するという前代未聞の珍現象がおきた。結局、その時の脱退者は10社程に及んだ。組合はその混乱に引きずられるように、組合の決算書類も前理事長時代から、県中央会に提出されないまま推移していったのである。
 その当時の執行部が何より苦悩したことは、県が中央会を通じて当組合を休眠組合に指定するという打診があったことであった。休眠組合の指定ということは、県からの強制解散を意味するものであり、組合執行部は直面した解散の危機を回避すべく、内部体制を整えつつ、県中小企業課を何度か訪問して危機を回避した。
 二度目の危機は1978年、金城英文が代表理事(3代目)の頃であった。組合が独立した事務所を開設して、防除薬剤の共同購買事業を本格的にスタートした年である。組合員の中には防除薬剤を販売している者がおり、同じ組合員に薬剤販売をしたため、組合との間で競合状態が続き、彼らは自ずから組合から脱退せざるを得なくなった。結局、翌年3月頃迄に個人的な理由も含めて、数人が組合を脱退したのである。
 このように組合の分裂劇の根底には、常に薬剤メーカーとの防除薬剤取引に起因するところが多々あることは、教訓としたいところである。
 嘗て某薬剤メーカーが自社薬剤を買ってくれた組合員の何人かをピックアップして、台湾旅行に招待したことがある。また、現在でも行なわれていることであるが、某薬剤メーカーの薬剤を購人することで、「メーカー保険保証書」を利用している組合員が何社かいるということである。
 前者のようなことは、現在は行なわれていないようであるから、心配ないところであるが、しかし、現在でもあるメーカーでは薬剤取引の内容によっては、販売価格がバラバラであるとも聞き、多少の問題点は残っている。後者については、組合の三大事業(工事の共同受注、薬剤の共同購買、工事の共同保証)の一角である共同保証事業の軽視に繋がりかねない危険要素をはらんでいるのではないかと危倶するところである。
 組合が今後薬剤メーカーとより良い関係を維持し、発展させるためにも、また、過去の轍を踏まないためにも、この問題は早期に解決すべき課題といえよう。

第七節 事業展開
 組合は1978年(昭和53年)6月、3代目代表理事 金城英文のときに、初めて独立した事務所を那覇市末吉町に開設することになる。それまでは歴代の代表理事か、もしくは役員の事務所に併設する形で間借りしてきたので、思い切った事業展開が中々出来なかった。組合は独立した事務所を持つことにより、組合本来の活動が活発になった。
 ちなみにその間の組合事務所の場所を下記に記す。

   組合設立時(1971年)(オスモース商会)
   理事 那覇市安里5番地 儀間ビル2階

   間借り移転(1972年)(沖縄白蟻工業社内)
   初代理事長 那覇市与儀46番地

   間借り移転(1978年)(平和白蟻工事社内)
   2代目理事長 那覇市牧志町2番地の4

   独自事務所移転(1978年6月)
   那覇市首里末吉町2丁目231番地

 独立した事務所を持ったことによって同年7月から、兼ねてからの懸案であった薬剤の共同購買事業を本格的にスタートさせた。当時取引したメーカーは、(株)大鹿振興と(株)児玉商会で、大鹿振興からはドラム(200L)取りで、児玉商会は1斗缶(18L)取りであった。スタート当時の薬剤は普通物のクロルデン剤が主体であったが、翌年の1979年(昭和54) 月には劇毒物の販売登録をして、ドリン系薬剤の販売も開始した。
 組合が(株)大鹿振興とドラム取引を始めたのは、薬剤の販売利益の増収を考えたからであった。確かにその為に、当時の全理事が保証人になって、沖縄銀行(古島支店)から500万円の借り入れもした。組合はドラム取りした薬剤を18L缶に小分けして、組合員に供給するシステムだが、価格的にも他社製品と比べても適正価格であったし、また、借入金の返済も一度の遅れもなく完済した。
 共同購買事業も軌道に乗り、共同受注事業も活発に行なった結果、組合は官公需適格組合の申請書類を沖縄総合事務局へ提出した。1980年(昭和55年)10月に沖縄総合事務局長より「官公需適格組合」としての認証を受けることができた。これは、沖縄での官公需適格組合としては「中部管工事事業協同組合」に次いで、二番目の快挙である。
 その後も継続して適格組合の認証を受けていたが、1986年(昭和60年)の1年間だけ途絶えた事があるので、今年の9月で実質満20年となる。その適格組合の認証を生かして、組合は独自に営業活動を活発に行った。その結果、受注した主な公共工事の受注実績を以下に示す。

   1979年(昭和54) 沖縄海洋博覧会記念公園内の郷土民家村防蟻処理工事
   1983年(昭和58) 沖縄市営室川団地及ぴ安慶田団地防除処理工事
   1990年(平成2) 首里城正殿防蟻処理工事
   1995年(平成7) 沖縄コンベンションセンター白蟻防除処理(ベイト工法)
   1997年(平成9) 特別名勝 識名園自蟻防除処理(ベイト工法)
   1998年(平成10) 首里城内自蟻防除処理(ベイト工法)
   2000年(平成12) 首里城 二階殿、系図座・用物座新築工事

後 記
 斯くして、当組合は30年の歴史の中では紆余曲折もあったものも、どうにかこの業界での指導的役割や社会ニ一ズにも微力を傾注しながら、初期の目的を達成すべく努力してきたのである。
特に1978年(昭和53)6月以降の諸事業の取り組みについては参考にできるであろう。実績が何一つない中で、総てが新しい挑戦の連続のようであった。
 組合30年についての執筆となって種々書きたいことが多い中で、各項目とも要約した内容でまとめてみたが、今後のための参考になれば幸いである。最後になるが、県中央会をはじめ、関係機関各位のご指導ご鞭撻に対し衷心より厚く感謝申し上げて、組合30周年に寄せる回想とさせて頂きたいと思います。

※注1
城島白蟻研究所、沖縄県出張所 肥後営業部(昭和五年八月五日沖縄朝日)


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